毒掃丸の歴史
創業者山崎嘉太郎の活躍(明治21年)
創業者である山崎嘉太郎は、慶応2年長野県上田に山崎林平の長男として生まれ、明治21年、東京市神田区花房町に売薬化粧品商・山崎帝國堂薬房を開きました。嘉太郎は、銀行・広告会社等の経営にも参加しておりましたが、明治23年に長男嘉男が生まれ、2年後の明治25年にはその子の名前を付した商店を出すなど売薬化粧品商に本腰を入れ始めました。その後も、東京の支舗山崎太陽堂、大阪の支舗山崎兄弟商会や九州支舗と次々に拡張し、全国に多数の特約代理店を持っておりました。
- 神田花房町の店舗*
- 長火鉢*
明治維新以後、多くの売薬が出ましたが、明治11年及び19年の訓令の中で「医用の範囲」、「新店舗の距離」など課税等の縛りが、一般用の売薬に大きな障害となっていました。嘉太郎は、東京の売薬業の有力者 安川、津村、高木、太田、喜谷、大木、各氏等と共に明治30年代から大正15年にかけてこれらの改革に尽力し、法的な基礎を作り上げました。
「ばい毒撲滅時期来る 俊効偉大最新薬発見せり」(明治28年)
これは、明治28年の新聞広告のキャッチフレーズです。
すばらしい薬を発見したという当時の意気込みが臨場感を持って感じられます。創業時の名称は、「腹内毒掃丸」=「どくさうじぐわん」です。
名は体を表すのことば通り、文字そのものが「体内の病気の毒を掃除してくれる丸薬ですよ」と語っているように名付けられています。
- 明治28年の新聞広告より抜粋
「毒掃丸」誕生(明治30年)
明治30年代からは、「毒掃丸」という名称で全国に大々的に売り出され、「毒掃丸」あるいは「腹内毒掃丸」という2通りの名称が使われるようになりました。明治・大正・昭和にかけてこれらの名称のまま販売されていきます。当然のことながら効能も変わらず、その文字「毒掃」の意味するそのものの病名、ばい毒・そう毒・しつ毒・りん毒・たい毒他でした。
- ばい毒 そう毒 しつ毒 *
撲滅新薬と書かれている
「複方毒掃丸」 へ(昭和20年)
昭和20年代には、便秘・たい毒・腰痛・関節痛等といった効能・効果の「複方毒掃丸」となります。
また、同時期に錠剤で より強力な「重症用毒掃丸」というものを作っており、その効能は、胎毒・るいれき・動脈硬化・神経痛等です。
その後、昭和57年の再評価により「複方毒掃丸」は、これまでの効能から瀉下薬基準に分類され、現在の便秘薬「複方毒掃丸」に至っています。
- 重症用毒掃丸
祖母から母へ、母から娘へ
当社は、健康な毎日と、生活の質の向上にお役に立つことを第一の目標とし、毒掃丸やカルシウム剤など、様々な一般用医薬品の製造や販売を行っております。日本のご家庭と共に歩んできた当社は、これからも、皆さまの信頼を決して裏切ることなく、変わらぬ安心をご提供して参ります。そして、時代の変化を先取りしながら、いつまでも、お客様の健康で闊達な毎日をかげながら支えて参りたいと思っております。
祖母から母へ、母から娘へ、母娘三代と代々家族で愛用していただきます様、今後ともよろしくお願い申し上げます。
- 母娘三代**
** イラスト:子供や赤ちゃんのイラストわんパグ 様