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  • 名刺交換の時などに、弊社の社名が古風なことに驚かれる方は、多いようです。社名「山崎帝國堂」は、136年前の創業した時からの名前なのですが(正確には、最初は「山崎帝國堂薬房」と呼んでいたようです)、かなり時代がかった、いかつい語感の社名ですよね…。「苗字」+「帝国」+「堂」という構成の社名を持つ会社は、今の日本では、恐らく私たちだけです。   今回は、その社名についての話題です。明治時代まで時を遡り、時代背景を探ることで、創業者の意気込みに思いをはせます。医薬品の本質や  製品の品質からは外れた話になりますが、歴史トリビア的にお読みいただけたら幸いです。   *ちなみに、帝國の「國」ですが、旧字体の「國」と新字体「国」のどちらをお使いいただいても結構です。弊社も登記簿では「国」を用いております。    

    1.弊社の創業

        弊社の創業者・山崎嘉太郎は、1866年(慶応2年)に長野県上田市に生まれ、1888年(明治21年)には、東京市神田区花房町に売薬化粧品商・山崎帝國堂薬房を開きました。そのころ山崎嘉太郎は、まだ20代前半の若さでした。現在の主力商品である複方毒掃丸の前進である「腹内毒掃丸」も、創業当初に発売しています。   関連リンク:「便秘と「デトックス」②医薬の歴史にみるデトックスの系譜と、毒掃丸」   才覚ある人物であったようで、銀行や広告会社の経営にも参画するなど幅広く活躍していました。例えば、現在の広告代理店最大手の株式会社電通グループのルーツで、1901年(明治34年)に創業された日本電報通信社と電報通信社では、専務取締役をつとめていました注1。   そんな嘉太郎が、自分が興した会社に名前を付けるにあたり、苗字・山崎の後ろに「帝國堂」と付けた理由は何だったのでしょうか。資料などは残っておらず、残念なことに今となっては真相は分かりません。ここから先はあくまで推測になりますが、今風の表現で言うと、社員やお客様の「気分がアガる名前だったから」ではなかったかー私はそんな風に思っています。    

    2.「帝國」という名前

        創業者・山崎が苗字の後ろにつけた「帝國」ですが、今の日本では、この単語は、良い意味にとらえてもらえないことがあります。特に政治思想の分野では顕著ですよね…。「帝国主義(imperialism)」なんて、他の国や他の民族を虐げながら自国の経済的・領土的・軍事的利益を追求していくような、とても悪い考え方とされていますね。植民地主義、軍国主義などと同列の、国同士が悪口を言いあう際の定番の用語です。また、国号としての「帝国」も、相当古臭いイメージかと思います。戦前の大日本帝国も戦争で負けてしまって今は無く、ローマ帝国やペルシャ帝国、イギリス帝国などの世界史に出てくる帝国も、現在までに全てなくなってしまいました。2024年現在、日本政府は195の国を承認していますが、その中に、自らの国号で「帝国」を名乗っている国は1つもありません。   あえて良いイメージがある例を挙げるとするとするならば、「旧帝大」「帝国ホテル」あたりは、由緒正しい、エスタブリッシュメントな響きがあって、ポジティブな印象があります。   そんな、悪く言えば時代がかった、良く言っても古風なイメージの「帝國」ですが、実は、このコトバがネガティブな印象を帯びたのは、戦後のことだといいます。当該学問から長く遠ざかっているので、政治思想史や国際政治学の分野からの引用や、世論調査などのエビデンスは示せませんが(筆者は国際関係論専攻)…。   「帝國」は、悲惨な第二次世界大戦や、日本の敗戦といった、歴史上の悲劇がまだずっと先の出来事であった明治時代には、むしろ新生日本が輝かしい未来に向けて漕ぎ出す、新しくて希望に満ちたコトバでした注2。山崎嘉太郎が自らの事業を立ち上げた1888年前後は、「帝國」にまつわる世の中の大きな動きが特に沢山あった時期です。時は、殖産興業不平士族反乱の時代から、自由民権開国進取富国強兵の時代へと進みつつあった頃でした。   (1)1886年(明治19年) 帝国大学令が制定され、官立東京大学が「帝国大学」に改組される(現在の東京大学のルーツ) (2)1887年(明治20年) 帝国ホテル会社設立、1890年(明治22年)帝国ホテル開業   参考   1888年(明治21年) 山崎帝國堂創業 (3)1889年(明治21年) 大日本帝国憲法が公布され、1890年(明治22年)施行。合わせて我が国の国号が大日本帝国になる (4)1890年(明治22年) 帝国議会が設立される。同年、第一回衆議院議員総選挙が実施され、続いて第一回帝国議会が召集される   新しい国造りの希望に満ちたムードが伝わってくるような年表ですね。山崎嘉太郎は、のちに電通となる広告会社の立ちあげに深く関わった人物で、自らも大々的に毒掃丸の広告を打つようになる注3人です。そういう嘉太郎ですから、威厳と夢が詰まった、気分がアガる新しい「帝國」というコトバの力を借りて、医薬品販売を頑張っていきたい…そんなマーケター的発想で社名を選んでいても不思議ではありません。    

    3.シンボルマークもマーケター的発想で選んだか

      証拠が残っていないなかでそのように推測するには、1つ理由があります。明治時代以来、毒掃丸のシンボルマークは動物のトラなのですが、このトラも、マークに採用された当時、日本に入ってきたばかりの時代の先端を行く動物だったのです。   毒掃丸の販促用の旗に描かれたトラ   トラは古来、日本にはいない動物です。もちろん、中国や韓国との交流を通じてエリート層にはその存在はかなり古くから知られていましたし、十二支に用いられるなど、市民にもなじみは深いものがありました。しかし、庶民が実物のトラに接することができるようになったのは、見世物などわずかな機会に限られていました。   1882年(明治15年)に日本で最初の動物園である東京の上野動物園が開園しますが、開園5年後の1887年(明治20年)になると、同動物園には日本で初めてトラが展示されるようになりました。ちなみに、そのトラは、外神田・秋葉ヶ原で興行していた当時大人気だった舶来サーカス団で生まれたトラを動物園側がヒグマと交換で入手したものだそうです注4。当時の上野動物園では、トラが入る前は熊しか猛獣がいなかったので、新たにやってきたトラは、人気を博したといいます注5。   外神田・秋葉ヶ原の舶来サーカス団でトラが生まれた1887年の翌年・1888年(明治21年)に、秋葉ヶ原のすぐ南・神田花房町で、山崎帝國堂が創業しました。のちに弊社がトラを看板商品のシンボルマークに選んだのは、嘉太郎たちが、当時人気を博した新しい舶来の動物にあやかったからだと私たちは考えています。最先端の話題の動物を主力製品のキャラクターとして取り入れたように、創業時には、新しい国号の一部を屋号に取り入れたものと思います。山崎嘉太郎は、新しい物事どんどん商売に取り入れる、頭が柔らかい人物だったに違いありません。   関連リンク:「毒掃丸と「毒退治」のトラ」   このように、今は古風に感じる山崎帝國堂という社名にも、まだ若かった創業者・山崎嘉太郎が感じた新時代の風や、商売への熱い意気込みが垣間見えます。   山崎帝國堂= 山崎(創業者・山崎嘉太郎の苗字)+帝國(明治時代には新時代の風を感じた輝かしいコトバ)+堂   明治の人々の、新しい時代への希望を今に伝える「山崎帝國堂」という社名。こう見ると、なかなか良いものだなあ… 手前味噌ながら、そう感じたのでした。    

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      関連リンク:複方毒掃丸ブランドサイトおすすめの服用方法複方毒掃丸サンプルお申込受付フォーム  複方毒掃丸は、6種類の生薬が自然に近いお通じを促す便秘薬です。便秘に伴う肌あれ・吹き出物の緩和に。明治時代の風を現代にお届けします。 複方毒掃丸 複方毒掃丸 便秘薬を飲むほどでもないという場合は、整腸薬もおすすめです。毒掃丸整腸薬は、乳酸菌と消化酵素と4種類の生薬を配合した、シナモンのような爽やかな香りがする、のみやすい整腸薬です。便通を整えてくれますので、ぜひ一度お試しください。関連リンク:毒掃丸整腸薬の製品案内毒掃丸整腸薬の無料サンプルお申し込みフォーム
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        注1:公益財団法人渋沢栄一記念財団webサイト「渋沢社史データベース」 (株)電通『電通66年』(1968.12) | 渋沢社史データベース (shibusawa.or.jp) 2024年1月21日アクセス 注2:中西 治 「グローバリゼーション・エンパイア・インペリアリズム:アメリカ合衆国は帝国か、その政策は帝国主義か」,  Sociologica,  vol29(1), (2),  2005,  p81-107. 注3:竹内眞哉「家庭薬物語 第20回 複方毒掃丸」, ファルマシア, vol51(9), 2015, p882-883. 注4:上野動物園HP・上野動物園の歴史参考文献 注5:濱田陽ほか, 日本人の非日常と日常に棲息する虎たち – 日本十二支考〈寅〉生活文化篇 –,  帝京大学文學部紀要. 日本文化学 2010  (41) 

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